▲今日は何しに宮崎へ!▲

宮崎県内に観光や仕事、キャンプなどで来られた方々に素直な感想を 聞いています 。【宮崎】に来られる方が参考になればうれしいです。。不定期で県内各地のことも紹介します。

ニシタチ物語(第2章)

老舗の記憶『6』

【ピ-プルスキャンダル】
(昭和54年創業)

スポットライトが照らし出す大理石のカウンターに、深紅に金の模様が入ったビロード張りの椅子が収まる。
その昔、ニシタチを訪れた大手ウイスキーメ-カ-役員が「ここは銀座か。宮崎にこんな店があるとは」と目を丸くしたという逸話が、中央通りの大型パブスナック「ピ-プルスキャンダル」には残る。


1979(昭和54)年のオ-プン時、オ-ナ-の渡辺修一さん(75)はまだ38歳。故郷大分で営んでいた建設会社がオイルショックで倒産し、新天地を求めた宮崎市で、イチかバチか5千万円近い借金を投じて開いた店だった。


たそがれ、ハリウッド、赤い靴---。すでに多くのキャバレ-やクラブが人気を博していたニシタチで、新参者が成功するには「どこにもない店を作るしかなかった」。
60人が座れる楕円(だえん)のカウンター、1脚6万円の豪華な椅子、生バンドや外国人ダンサー。目新しいスタイルが受け、店はすぐに評判となった。

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昭和60年代に入ると、バブル景気の恩恵がニシタチにも到達。「毎日がお祭りで、平日午前1時を回っても、今の週末くらいの人出。最高の時代だった」と渡辺さんは懐かしむ。他店から聞いた話だが、1本4千円の栄養ドリンクを接客したホステス全員に毎回プレゼントする客もいたという。「一晩で数万円使う人も珍しくなかった」


もちろん渡辺さんの店も黄金期。店内の通路に順番待ちの列ができ、多い日には200人以上が、着飾った女性との会話を楽しんだ。1時間3500円で飲み放題にもかかわらず、1万円以上する洋酒を別注文し、女性スタッフに振る舞う上客もいた。


当時、20代を中心に30人以上の女性が在籍していた同店。渡辺さんは「一生懸命なのは今の子も同じ。でも、昔の子たちには夜の世界で生きていくという迫力があった」と感じる。
事実、同店を《卒業》した女性数十人がスナックを開業。ニシタチの夜を彩ってきた。

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2000年ごろから、ニシタチではクラブやキャバレ-を「ラウンジ」と呼ぶようになった。シンプルで洗練された店が増え、ピ-プルスキャンダルのような重厚な内装は見当たらなくなった。だが、渡辺さんは「この店はこれからもこのまま」と断言。オ-プン時と同じ料金設定も変えるつもりはない。「今までよく稼いでくれた。自分が社長の間は赤字でも守っていく」。渡辺さんがいとおしむように店内を見渡した。

10月末のある晩、お気に入りの女性スタッフとウイスキーを傾けながら常連客(65)がつぶやいた。「この店にいる間は昭和の自分に戻ったような気持ち。今どき過ぎて逆に気を使う店も増えたけど、ここでは本当にゆっくりできる」。かつて若者でにぎわった最先端の店は今、昭和の薫り漂う懐かしい空間として親しまれている。

ー続くー。