▲今日は何しに宮崎へ!▲

宮崎県内に観光や仕事、キャンプなどで来られた方々に素直な感想を 聞いています 。【宮崎】に来られる方が参考になればうれしいです。。不定期で県内各地のことも紹介します。

ニシタチ物語(第2章)

老舗(しにせ)の記憶『1』

【よんしゃい】

『1950(昭和25)年創業』
ニシタチの中心部・西橘通りに面した、狭い路地の突き当たり。

四方をビルに囲まれた16坪の平屋に、おでん屋「よんしゃい」は60年近くののれんを掲げる。)



「いつの間にか老舗と呼ばれちょった」。店主の石橋茂さん(71)は今も、毎朝3時間以上かけて、昆布とかつお節のだしを仕込む。

17年前に85歳で他界した母さつきさんから受け継ぎ、つぎ足しながら守ってきた味だ。


10人掛けのL字型のカウンターは、平日もなじみの客で満席。年配の常連が部下の愚痴をこぼせば、「あんたがいたらんからよ」と石橋さんがたしなめる。

時には若い客や観光客も巻き込んで、人生相談やお国自慢に花が咲く。そんな何でもない会話も、この店では酒のさかな。

「家より落ち着くわ」。40年以上通い続ける60代男性がおどけると、別の客から「(アルバイトの)女の子に会いたいだけやろ」とやじが飛んだ。

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店の原点は、博多出身の両親が1950(昭和25)年に県庁前の楠並木通りで開いた小さな屋台。55(同30)年ごろには30以上の屋台が並んだ県庁前で、よんしゃいは草分け的な存在だった。

多くの屋台は57(同32)年の立ち退き命令を機にニシタチに移り、赤ちょうちん街「安兵衛小路」(2006年取り壊し)を築くが、両親は55(同30)年に一足早く西橘通りのそばに移転。

7坪ほどの小さな貸店舗を経て、父吉郎さんが44歳で急死した59(同34)年、兄弟5人が育った16坪の借家を一部改装し、母親が今の店を開いた。


「 子どもの頃は年の近い友達が近所に何十人もいた」。長屋や同店のような家屋が軒を連ね、人々の生活の場であったニシタチが、歓楽街へと変わり始めたのは昭和30年前後。



石橋さんは「映画館とかパチンコ店が次々とできた。行ったことはないけどダンスホールもあったな」と懐かしむ。

当店の飲食店は多くが住居を兼ねており、店で働く人も近くに住んでいた。「どの店も顔見知りばかりだった」。高校時代には、近所の床屋で昼間の時間をつぶす若いバ-テンダ-たちが都会の話を聞かせてくれた。
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25歳で店を手伝い始めて、もうすぐ半世紀。ここ数年は店をたたむ顔なじみに「よう頑張ってきたね」とねぎらいの言葉を掛ける機会も増えた。


だが寂しさはない。「古い店がなくなった後に、すぐに新しい店が出てくる。この街は変わらず元気なまま」
母親が引退した70代後半が近づき、先のことを考えることもあるが、「朝は仕込みをして、夜はお客さんと笑う。同じことを繰り返しているからか、大きな病気はないね」。


まだしばらくは自慢のおでんと、カウンターでの心の交わりを楽しむことができそうだ。

ー続くー。