▲今日は何しに宮崎へ!▲

宮崎県内に観光や仕事、キャンプなどで来られた方々に素直な感想を 聞いています 。【宮崎】に来られる方が参考になればうれしいです。。不定期で県内各地のことも紹介します。

多くの謎残す、伝説の地

『宮崎カルチャー夏旅4』
空想お宝探し
「タイムスケジュール」
★7:00 宮日新聞社出発
★10:00 島野浦(島浦町)
★14:00 昌雄寺(北浦町)
★16:00 牧野義英さん方(無鹿町)
★17:00 浦城港、岩切幸久さん方(浦城町)

日本列島津々浦々に残るお宝伝説。真実ならば国宝級の文化財が今も大量に眠っていることになる。後世に引き継ぐために何とかせねば。宝を探し出すXデ-に備えて、まずは空想(妄想)のスコップで試し掘りをしよう。せっかくなら現地に足を運び、怪しい場所を攻めたい。県内の伝説の地へと向かった

●漁師が見つけたのは---
今回のタ-ゲットは延岡市の島浦(島野浦)と浦城。海を挟んで約6㌔の近接地にそれぞれお宝伝説が残るホットスポットだ。まずは「島野浦メキシコ女王伝説」から。

島城港より高速艇ならば約10分という船旅の中で、言い伝えをおさらいする。


《江戸末期、島野浦から出航した一隻のカツオ漁船が、海を漂う木箱を引き揚げた。ふたを開けると金髪の白骨とともに宝物がぎっしり。たたりを恐れた漁師たちは、島の南端にある「沖の小島」に木箱を埋めた》

島野浦に到着。「全国離島振興推進員」で「宮日ふるさとリポーター」という心強い味方の結城豊廣さん(66)にレクチャ-を受けた後、海上タクシーに乗り沖の小島付近へ向かった。
10分とかからず小島の前に。島というより沖磯に近く、北側の非常に小さな砂浜は、小舟でないと接岸できないとのこと。

遠目だが、確かに木箱を埋めることはできそうだ。夕やみの中、たいまつの灯を頼りに穴を掘る漁師たちの姿を思い浮かべる。しかし、これまでに何度も調査されたものの、発見されていないという。

内藤家文書には1846(弘化3)年、漁師が人骨の収められた木箱を発見したと、言い伝えに酷似した記録が残る。ただ、中身に宝飾品などの記述はない。また伝説名の由来とされる、同時期のメキシコでの内乱と女王殺害について、京都外国語大スペイン語学科の立岩礼子教授は「史実ではない」とする。


内藤家文書と伝説との違いの真相は。メキシコ女王でないなら、どこの誰なのか。外国人だとすれば「オランダやロシアなどの船へ乗船中に亡くなった尼僧や女性が水葬された可能性も考えられる」と立岩教授。伝説は多くの謎を残している。
●「海賊」たちの夢の跡
次は浦城港に戻って「浦城水軍の埋蔵金伝説」。
《戦国時代、浦城湾の小山に出城を築いた水軍(海賊とも)が豊後の大名・大友宗麟から攻められた。最後の城主・松田(あるいは松永)義清は討たれ、隠した財宝は行方知れずとなった》

出城があったといわれる場所は「おや鼻」と呼ばれる。湾の中に突き出した丘陵。うっそうとした草木に覆われ遠目には遺跡があるとはわからないが、石垣や人工の大きな溝などが残っていると、地域史に詳しい牧野義英さん(65)が教えてくれた。また、水産会社を経営する岩切幸久さん(66)は、おや鼻には「ウマトバセ」と呼ばれる伝令用の馬の通路があったとかって聞いた。

伝説の名残はまだある。浦城水軍は、伊予国(愛媛県)を本拠とした実在の「河野(こうの)水軍」の一派と伝わる。それを裏付けるように、
延岡市北浦町の「昌雄寺」や同市熊野江町に残る六地蔵石幢には、寄進者として「河野越智(おち)」の姓が記されていた。また、両地域などには「河野」姓が多いという。岩切さんから聞いた、水軍伝説のヒントとされる言葉「朝日輝く夕日のもと」「トロトロダンノ64ダン」も謎だ。

川南町の「トロントロン」のように水に関する言い伝えなのか---
どちらの宝も「ない」と結論が出ていない限り、可能性は五分五分。まずは信じたい。信念から大発見は始まるのだから。

ーシリーズ続くー。