▲今日は何しに宮崎へ!▲

宮崎県内に観光や仕事、キャンプなどで来られた方々に素直な感想を 聞いています 。【宮崎】に来られる方が参考になればうれしいです。。不定期で県内各地のことも紹介します。

ニシタチ物語(第2章)

老舗の記憶『5』

【雅】
81歳現役、和服で接客

宮崎市内中央通りにある宮崎ビル2階の突き当たりに、スタンドバ-「雅(みやび)」がある。1968(昭和43)年、夫を亡くし小学5年生の一人娘を育てるため、33歳だった寺坂菊子さん(81)が始めた店だ。


「3年やってだめならやめよう」。そう決心して出身地の高鍋町で始めた慣れない水商売だったが、周囲の手助けもあり店は繁盛。3年後、バ-を始める前まで生活していた宮崎市に戻り、完成したばかりの同ビルに今の店を出した。


71(同46)年の中央通りはニシタチ草創期を支えた大衆飲食店街「安兵衛小路(やすべえこうじ)」ができ14年がたっていた。当時、周りは鍛冶屋、たばこ屋、雨具屋などが並ぶ商店街。寺坂さんは「まだビルは珍しく、1階が店舗で2階が住居の木造がほとんど。飲み屋には注文を取りに酒屋、氷屋、乾物屋などの御用聞きが飛び回っていた」と回想する。
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15人掛けのカウンターだけの小さな店。「最初は酒もつくれなかった」と寺阪さんは笑う。
昭和40年代はバ-テンダ-など数人の従業員がいて支えてくれた。ウイスキーのキ-プはリザーブ7千円、オ-ルド6千円と高めの設定。客には経営者など地位のある人も多く、店の醸(かも)し出す落ち着いた雰囲気が好まれた。


昭和50年代になると飲酒時の楽しみ方に変化が起こる。客の強い要望でカラオケを導入。「8トラックのカセットテ-プでカラオケを楽しむようになる前に、伴奏だけ入ったレコードに合わせて歌っていた時代があったの」と、店の奥から古びたLPレコードの束(たば)を持ち出し見せてくれた。「 100枚くらいあったかな」というから驚きだ。
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《日本の美》が好きだから、それを連想させる「雅」と名付けた。和服で出迎えるスタイルは創業当初から変わらない。平成になると一人娘の青山桂子さん(59)も店に立つようになり、母と娘の息の合ったもてなしが話題を呼ぶようになる。


転勤族のファンも多い。単身赴任で二十数年前、4年ほど宮崎に住んだ60代の会社役員男性=東京都= は今も宮崎を訪れるたびに顔を出す。「酒の中身は同じでも、ここで飲む水割りが一番おいしい。安らぎというか、心地よく飲ませてくれる」


店の壁には顔を赤らめた酔客が、楽しく飲み語らう姿などを収めた250枚ほどの写真が所狭しと飾られている。「天国に旅立たれた方もいるが、写真を見ると当時を思い出せる。これは私の宝物」。寺坂さんは目を細める。

「店を出して48年、現役で店を切り盛りする初代経営者はニシタチでも珍しいやろ」と娘が声を掛けると、母は「私が頑張らんと店が心配じゃが」と笑う。寺坂さんは今夜も大好きな山崎の水割りを片手に、客の声に耳を傾ける。

ー続くー。